最新刊
周五郎名品集6
(2023/09/25)本篇には長編『明和絵暦』と『米の武士道』、『夜霧の半太郎』を収録した。 長編『明和絵暦』が奥川書房から上梓されたのは昭和十六年十二月十日、太平洋戦争勃発の二日後であり、作者にとって六冊めの単行本であった。『明和絵暦』は、その原形は昭和九年一月二十日から七月十五日まで、二六新報に連載された同名の長編で、山本としては最初の新聞小説であった。 この作品の主人公、山県大弐は幕末の皇学者で享保十年(1725)に生まれ、甲斐国巨摩郡篠原村竜王の人。医を業とする傍ら加賀美光章、五味国鼎に学び皇漢儒仏方技天文、諸子百家の論、およそ渉猟せざるはなく、一時、岩槻藩主大岡忠光に仕えたが間もなく致仕して国典や兵法を論じ士気を振るい起こすことにつとめた。時に在京の竹内式部らは山県の学説に親しみ、皇権恢復を唱えたので、宝暦八年、幕府はこれを忌んで正親町三条公積ら式部門下の公卿二十余人を処罰した。一方、大弐は「柳子新論」を著して王室の衰運と幕府の専横を痛罵、その名声は門下一千人に及ぶと称されるほど高く、上州小幡藩主織田信邦の重臣吉田玄蕃も主要な門下生の一人となった。たまたま同藩士松原郡太夫は玄蕃の声望を妬み、大弐と共に叛心ありと讒言、また大弐の門下桃井久馬が同門の藤井右門を憎んでいるのを知り、一網打尽を策して、大弐が倒幕の陰謀を謀りつつあるとして町奉行に訴えた。幕府は彼を審理糾問の末、明和四年(1767)八月二十二日、死罪に処した。 これがいわゆる小幡藩事件または明和事件と称された騒動の概要である。やがて大弐は明治二十四年に至り、倒幕運動の先駆者として、正四位を追贈された。大弐は尊王論者の先駆として従来注目されてきたが、処罪の理由は尊王思想ではなく、兵学の講義に幕府の要害を攻める仮想を立てたりしたためであるという研究者もいる。 『明和絵暦』のテーマとなっているのは、繰り返し山本が述べているように、山県らは夜盗山賊ではない、また幕府と党を構えて争闘するものでもない、身命を賭して天下に尊王倒幕を触れて歩くのみである、もし幕府に捕えられたにせよ、泰平の世に敢えて王政復古を唱うる者ありと、万民の耳目に伝わるだけでも本懐これに過ぎぬではないかとする思想である。 この作品の山県大弐は、山本周五郎作品の主人公たちの、雄図を抱き、しかも、その志の達成の不可能なことを見極めながらも、生命ある限り、今はの際まで全力を傾注して半途に斃れてゆく人間像たちの原形と称してよい。『明和絵暦』が、これだけ重量感のあるテーマを担いながら、一方では美剣士や美女、悲運の男女を配し、かつは改革派に藩主派を対置し、剣戟場面や濡れ場、絵師光基の責め場、富永道雄の悲恋などもふんだんに盛り込んで、娯楽性ゆたかな作品となっている。しかし『明和絵暦』は後日の山本の重厚な作風からすれば、文体も初期作品にみられる講談調の軽さから脱却し切れていない。人物造形も大衆娯楽小説特有の稚拙なカタにはまるなどの欠点が数々指摘されている。しかし戦後の作者が力作群で示した技量の片鱗が、随所でうかがわれる興味深い作品となっている。山県大弐は、前述したように、中巨摩郡竜王町の生まれで、山本の生母とくもまた竜王町の出身である。甲斐の山河がこの作品の中に点綴されているのだが、つまり山本はその狷介孤高の表情の裏に、祖先の地への愛郷心を秘めていたことも偲ばれる。